【9月】禅語

福寿海無量(ふくじゅかいむりょう)

観音経(妙法蓮華経観世音菩薩普門品)の偈句(漢詩の形式で本文を説明するもの)の一節。

本来は『福聚海無量』と書く。

意味は:(観音菩薩の功徳は)福をあつめた海のように無限であること。

大変に有難くおめでたい句なので、お祝い事や正月など季節を問わず使えます。

枕慈童の慈童が賜った枕に書かれていたのは 【具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量  是故應頂礼】

菊の節句、重陽(九月九日)に寄せて秋の風情を楽しみます。

掬水月在手(みずをきくすればつきてにあり)

干良史(唐の詩人) 「春山夜月」の一節

春山多勝事 (春の山は素晴らしいことが多い)
賞翫夜忘帰 (美しいものを楽しみ味わっていると夜になり帰るのを忘れるほどだ)
掬水月在手 (水をすくえば月は我が手の平の中にあり)
弄花香満衣 (花に触れればその香りは衣に移り、その香りでいっぱいになる)
興来無遠近 (興が乗れば遠い、近いは関係なく)
欲去惜芳菲 (草花の芳しい香りから離れがたく思いどこまでも行きたくなってしまう)
南望鳴鐘処 (南の方から鐘の音が聞こえる)
楼台深翠微 (楼台は遠くにかすむ山の中ほどに佇んでいる)

春の情景の詩です。この中の 《掬水月在手 弄花香満衣》の部分が虚堂録(南宋の臨済宗の僧 虚堂智愚の語録である公案集)に取り入れられた禅語です。

良い物に交わればその香りが移り、自分自身もよい影響を受ける。しかし、月を手にするためには水を掬わなければ月は空にあるだけであるし、花に触れなければいかによい香りの花でも衣が香りに満たされることもないということです。

※禅や密教、あるいはそれらの基となったヨガなどでは、
梵我一如(梵=ブラフマン=世界の本質 我=アートマン=個人の真なる本質 が一つになる事)を求め、
座禅や礼拝、様々な修業を行うわけです。
瞑想するときのテクニックとして”公案”(修業の課題)や神仏の姿などをイメージしたりします。
曹洞禅の只管打座はそのようなテクニックを良しとせず対立が存在します。
しかし、ただひたすらに座禅することで自分自身に潜む仏性(梵)と自分自身(我)が
溶け合って分離できない一つになる事を目指しているのだとも言えます。
インド哲学、日本の文化、宗教ともに、呪術性が高い傾向にあり、
呪術性という点ではある意味同じものと捉えてもよいと思います。 

禅の言葉としては、水を掬うこと、花を弄すること、根本原理に集中し、集中の結果、水が月なのか、水を掬う自分の手が月なのか、自分と月と世界の全てが溶け合って一つになってしまって分けることができなくなる=サマーディ(三昧、悟り)に至る境地を表している言葉ととらえることが出来ます。

昨夜一声雁(さくやいっせいのかり)

出典 五灯全書
昨夜一声雁(さくやいっせいのかり) 昨夜、渡り鳥の雁が戻ってきて鳴く声が聞こえた
清風万里秋(せいふうばんりのあき) 今朝起きてみるとすがすがしい風が吹き、秋の訪れを感じる

美しい句です。禅の言葉としては、修業に日々打ち込み、ある日、雁が鳴くのを聞くようなきっかけで すがすがしい秋(=悟り)がやってきましたという意味。

清風拂明月(せいふうめいげつをはらう)

澄みきった月(煩悩が晴れた状態、真如の月)にさらに雲を払うかのように清々しい風が吹く。秋にふさわしい言葉です

出典 人天眼目(宋時代 臨済、雲門、曹洞、潙仰、法眼の五家の綱要書)

問 如何是先照後用 (問う いかなるかこれ先照後用)
曰 清風払明月   (曰く 清風、名月を払う)
云 如何是先用後照 (云う いかなるかこれ先用後照)
曰 明月払清風   (曰く 名月、清風を払う)
云 如何是照用同時 (云う いかなるかこれ照用同時)
曰 清風明月    (曰く 清風名月)
云 如何是照用不同時(云う いかなるかこれ照用不同時)
曰 非清風而無明月 (曰く 清風あらずんばすなわち名月なし)

臨済禄で語られる四照用 (先照後用・先用後照・照用同時・照用不同時)

いつも通り唯識論の問答です

照は”知(認識・プラジュナー/般若)”の働き 用は”意(自己意識・マナス/末那)”の働き

先に般若の知があって後に末那識の働きがあるのはどういう状態ですか?と聞いたのに対し

澄み切った名月があり、さらにそれを掃き清めるかのように清風が吹く状態である 

(仏教の修業をしようと思い立ち、まず、師にどうすれば悟りに至れるのかを訪ね【認識】師から指示された修業を開始する【意識】)

では、先に末那識の働きがあり、般若の知があるのはどうか

清風が吹き、そこに名月があることが顕わになる

(悟りを得ようとまず修業を始め【意識】その修業の末に実際に悟りがあることがわかる【認識】)

それでは、般若の知と末那識の働きが同時であるのはどうか

月があり、それと同じく清風がある

ならば、般若の知と末那識の働きが相互に影響をするのはどうか

清風が吹かなければ、そこにある雲が晴れることはなく、すなわち名月もない

仏教でもヨガでも”悟り”に関する話は”例え話”で語られます。

難しいお話ですね。

明歴々露堂々(めいれきれきろどうどう)

この世界の真理は明らかに一目でわかるほどにはっきりと表われていて堂々としている事

真理は、どこかに隠されているものではない、この世界に生きる生き物や事象、ありとあらゆるものに表出している。

もしその心理が見えないのであれば、それは覆い隠されているのではなく、見る者の眼が、心が曇っているために見えないのであるということ。

体露金風(たいろきんぷう)

古代中国では五元素(木、火、土、金、水)でも季節を表します

このうち、金にあたる7月、8月(秋)に吹く風を金風(ごんぷう)と言います

体露は全体が顕わになっている事を言います

碧巌録 第27則
擧        (挙す)
僧問雲門     (僧、雲門に問う)
樹凋葉落時如何  (樹しぼみ葉落つる時、如何)
雲門云      (雲門いわく)
體露金風     (体露金風)

僧は雲門禅師に問います

秋になり、木々の勢いがなくなり葉が落ちる時、その時はどうでしょうか

雲門禅師は言います

天地すべてに清々しい秋の風が吹き、ただ、それを受け止めているのだ

この僧が言った【樹凋葉落時】という言葉は、大乗涅槃経の引用です

《仏陀が涅槃に入った時、百年もの間枝葉を伸ばし続けた樹が樹皮も枝葉も尽く落ちて、ただ、そのあとには真実のみがあった≫

それに対して、雲門禅師は

そうそう大層な話をしなくても、ただ、心地よい秋風(真実)に身を委ねることが悟りであると答えました。

真実(ブラフマン・梵)は迷い、煩悩だけでなく、悟りと云う概念さえも取り去った先にあるものであり、

その顕れた真実に対し自分自身(アートマン・我)が身を委ね一つになったものが悟りの世界ですよと言います。

采菊東籬下(きくをとるとうりのもと)

和気兆豊年(わきほうねんをきざす)