[菊慈道 きくじどう]
あらすじ
1.魏の文帝の臣下が酈縣山(てっけんざん)へと向かいます
- 酈縣山のふもとから薬の水が湧いているとの話があり、その源流を見て来るようにとの宣旨
- 山の奥深くに踏み入りましたが、庵を発見します
2.不思議な子供が現れます
3.獣が住むような山の奥にも関わらず、子供の姿で身なりも普通ではありません
- 慈童は周の穆王に仕えていた者であると言います
- 勅使はそのような何百年も昔の者が生きているわけがないと訝しがります
- 慈童は現在の皇帝について尋ねます
- 勅使は魏の文帝の時代であり、700年は経っていると答え、やはり化け物であろうと言います
4.慈童はいやいや、貴方の方こそ化け物ではないかと応えます
- 慈童は周の穆王から賜った枕に観音経の偈句が書き添えられているのを勅使たちに見せます
- 菊の葉にこの偈句を書いたためにその功徳により菊の葉から滴る露が不老長寿の薬になったのだと言います
- 帝の徳と観音菩薩の功徳を讃え、慈童は舞を舞います
5.慈童は勅使たちに薬の酒を勧め、自らも飲み、酔って菊の上に寝てしまいます
6.慈童は、帝に不老長寿の薬の水を捧げ、千秋万歳を寿ぎ、庵へと戻っていきます
ワキ/ツレ | 山より山の奥までも | 山また山の奥深くまでも |
山より山の奥までも | 山また山の奥深くまでも | |
道あるや時代なるらん | 道が続いているのは帝の治世の賜でございましょう | |
ワキ | これは魏の文帝に仕へ奉る臣下なり | 私は魏の文帝(187-226)にお仕えする臣下でございます |
さても我が君の宣旨には | この度、わが主君の宣旨がございましたが | |
酈縣山の麓より | 酈縣山(てっけんざん・河南省にあるとされる架空の山)のふもとから | |
薬の水涌き出でたり | 薬の水が湧き出しました | |
其水上を見て参れとの宣旨を蒙り | その上流を見て来るようにとの宣旨を受け | |
唯今山路に赴き候 | ただ今、山路に赴いております | |
急ぎ候ふ程に | 急いで向かっているうちに | |
これははや酈縣山に着きて候 | 早くも酈縣山に到着いたしました | |
これに庵の見えて候 | ここに庵が見えます | |
まずこのあたりに徘徊し | まずはこの辺りを歩き回り | |
事の子細を窺はばやと存じ候 | 詳しく様子を探ろうかと思います |
シテ | 夫れ邯鄲の枕の夢 | 邯鄲の地で枕を使った者は夢の中で |
楽むこと百年 | 栄華を極める百年を楽しんだと言うが(邯鄲の夢) | |
慈童が枕は古への | 慈童の枕は遠い昔を | |
思寝なれば目もあはず | 思い寝るので瞼が合うこともなく眠れません | |
地 | 夢もなし | 夢も見ることはない |
いつ楽しみを松が根の | いつまで楽しみをまつ(松=待つ)てば良いのであろうか | |
いつ楽しみを松が根の | いつまで楽しみを待てば良いのであろうか | |
嵐の床に仮寝して | 嵐の吹きすさぶ床に仮寝をして | |
枕の夢は夜もすがら | 枕の夢は夜通し | |
身を知る袖はほされず | わが身の罪を思い知らされ涙に濡れる袖は乾く暇がありません | |
頼めにし | 頼み奉った | |
かひこそなけれひとり寝の | 甲斐もなく独り寝する有様です | |
枕詞ぞ恨みなる | 昔の帝のお言葉が恨めしく思われます | |
枕詞ぞ恨みなる | 昔の帝のお言葉が恨めしく思われます |
ワキ | 不思議やな此山中は | 不思議なことです、この山中は |
虎狼野干の栖なるに | 虎、狼、狐など獣のすみかであるというのに | |
これなる庵の内よりも | この庵の庵の中から | |
顕れ出づる姿を見れば | 現れ出た姿を見れば | |
其様化したる人間なり | その様子は普通ではない様の人間である | |
如何なる者ぞ名をなのれ | どういった者であるか、名を名乗れ | |
シテ | 人倫通はぬ所ならば | 人も訪れることもないこのような場所へ来たのであれば |
其方をこそ化生の者とは申すべけれ | あなたこそ怪しい者であると言うべきでございましょう | |
これは周の穆王に召し仕はれし | 私は周の穆王にお仕えしておりました | |
[穆王(紀元前976-922)] | ||
慈童がなれる果ぞとよ | 慈童のなれの果てで御座います | |
ワキ | これは不思議の言ひ事かな | これは不思議なことを言う |
真しからず周の代は | 本当とは思えない、周の時代は | |
既に数代のそのかみにて | 幾代も過ぎ去った前の時代で | |
王位も其数移り来ぬ | 王位も時代の数と同じだけ移り変わっている | |
シテ | 不思議や我はそのままにて | 不思議なことに私の姿はそのままで |
昨日や今日と思ひしに | 昨日、今日ここに至ったように思えますが | |
次第に変るそのかみとは | 幾代も時代が移り変わったとは | |
さて穆王の位は如何に | それでは穆王の王位はどうなっているので御座いますか | |
ワキ | 今魏の文帝前後の間 | 今は魏の文帝の時代です |
七百年に及びたり | 穆王の時代と現在との隔たりはは700年にも及びます | |
非想非々想は知らず | 非想非々想天であれば、あるいはそうかもしれないが | |
[非想非々想天 仏教で天上界の最高の天、ほぼ禅定の世界を言う 有頂天とも] | ||
人間に於いて | 人間の世界において | |
今まで生ける者あらじ | 今まで生きるものは居ないであろう | |
いかさま化生の者やらんと | きっと化け物に違いないと | |
身の怪めをぞ為しにける | 怪しく不審に思うのです |
シテ | いや猶も其方をこそ | いやそれでもなお、貴方の方こそ |
化生の者とは申すべけれ | 化け物だと申さずには居られません | |
忝なくも帝の御枕に | かたじけなくも帝の御枕に | |
二句の偈を書き添へ賜はりたり | 二句の偈(経典の一節)を書き添えたものを賜りました | |
立ち寄り枕を御覧ぜよ | 近くに寄ってこの枕をご覧になりなさいませ | |
ワキ | これは不思議の事なりと | これは不思議なことであると |
各立ち寄り読みて見れば | 各々が近づいて読んでみれば | |
シテ | 枕の妙文疑いなく | 枕に書かれているのは間違いなく経典(観音経)の一節である |
シテ/ワキ | 具一切功徳 | (観音菩薩は)一切の功徳を備え |
慈眼視衆生 | 慈悲の眼を以て衆生を視給う | |
福聚海無量 | 衆生を救おうとするその福寿は大海のように無限である | |
是故応頂礼 | この故にまさに(観音菩薩を)頂礼すべし | |
地【小謡】 | 此妙文を菊の葉に | この妙文を菊の葉にしたため |
置くしただリや露の身の | 葉に結ぶ露が滴りとなり(普通であれば露のように儚い命も) | |
不老不死の薬となつて | 不老不死の薬となったので | |
七百歳を送りぬる | 七百歳の寿命を送っています | |
汲む人も汲まざるも | この薬の水を汲む人も汲まない人も | |
延ぶるや千年なるらん | 飲めばその寿命は千年にも延びるであろう | |
おもしろの遊舞やな | 面白い舞であるなぁ(興に任せて踊るとしよう) | |
(楽) | 慈童が舞楽(雅楽のうち、大陸から渡来した舞と音楽)風に舞います |
シテ | 有難の妙文やな | 有難い功徳のある素晴らしい文であるなぁ |
地 | 即ち此文菊の葉に | この偈句を菊の葉にしたためたので、たちまち |
即ち此文菊の葉に | この偈句を菊の葉にしたためたので、たちまち | |
悉くあらわる | その功徳が全て現れたのです | |
さればにや | そのせいであろうか | |
雫も芳しく滴も匂ひ | 雫も芳ばしく、滴りも匂って溜まって行き | |
淵ともなるや | 淵にまでなったのであろう | |
谷陰の水の | 谷陰に溜まる薬の水は | |
所は酈縣の山の滴 | その酈県山から滴る水は | |
菊水の流 | 菊水の流れです | |
泉はもとより酒なれば | 泉の水は元より酒であるので | |
酌みては勧め | 酌んでは勅使に勧めて | |
すくひては施し | 掬っては勅使の連れている従者にも施し | |
我が身も飲むなり飲むなりや | 自身も飲み杯を重ねる | |
月は宵の間其身も酔に | 月はまだ昇ったばかりだが慈童は次第に酔い(宵/酔い) | |
引かれてよろよろ よろよろと | 酔いにひかれるようによろよろ、よろよろと | |
ただよひ寄りて | よろめくように枕の方に寄って(ただよい/酔い/寄り) | |
枕を取り上げ戴き奉り | 枕を取り上げて、恭しく捧げ持ち奉って | |
げにも有難き君の聖徳と | 誠にありがたい我が君の優れた徳で御座いますと | |
岩根の菊を手折り伏せ手折り伏せ | 岩の根元に咲く菊を折り倒し、折り倒しして | |
敷妙の袖枕 | 袖を枕に敷いて | |
花を筵に臥したりけり | 折り倒した菊の花を筵に寝てしまった |
シテ | もとより薬の酒なれば | もとよりこれは薬の酒であるので |
地 | もとより薬の酒なれば | もとよりこれは薬の酒であるので |
酔にも侵されず其身も変らぬ | 酔うこともなく慈童の姿が変わることもないまま | |
七百歳を | 七百才の命を | |
保ちぬるも | 保っているのも | |
此御枕の故なれば | この枕のお陰であるから | |
いかにも久しき千秋の帝 | まことに素晴らしい帝の代が永く千年にも続くように | |
萬歳の我が君と | 万年も栄える帝の世であると | |
祈る慈童が七百歳を | 祈り、慈童が七百歳の寿命を | |
我が君に授け置き | 我が君(文帝)に捧げ授けおいて | |
所は酈縣の | ここ、酈縣の | |
山路の菊水 | 山路に沸く菊水を | |
汲めや掬べや | 汲みなさい、掬いなさい | |
飲むとも飲むとも | 飲んでも飲んでも(海のように広大無辺な観音菩薩の功徳も帝の徳も) | |
尽きせじや尽きせじと | 尽きることはないであろう、尽きることはないと | |
菊かき分けて | 菊をかき分けて | |
山路の仙家に | 山路にある仙家へと | |
そのまま慈童は | そのまま慈童は | |
帰りけり | 帰っていった |