あらすじ
1.勅使が吉野で不思議な老人に出会う
- 吉野の地の桜の種を移し植えた嵐山の桜を見て来るよう命じられた勅使が嵐山に向かいます
- 勅使が嵐山に到着するとおりしも桜が満開の時期
- 其処には不思議な老人と老女が桜の木の下を掃き清めて、木に向かって礼拝している様子
2.老人は嵐山の桜について語ります
- 勅使が老人になぜ礼拝して居るのかを尋ねると
- 老人は、自分たちは嵐山の花守で、嵐山の桜の木は神木であると言います
- 吉野は神々の坐する土地で、そこから移し植えた嵐山の木には子守の神、勝手の神が時々来臨するのだと
- 嵐の名がつく嵐山であっても、神々の力によって、散ることはなく、この泰平の御代も神仏に祝福されていると言います
3.末社の神が現れ、吉野の木を移し植えた嵐山の桜の由緒を述べ舞を舞う
4.子守の神、勝手の神が現れ舞を舞います
- 嵐山の地は神が訪れるのにふさわしく神力に満ちている 青根が峰があたかもここにあるかのようだと舞を舞います
- 勅使が舞を見て感動していると、南から芳しい香りが漂い、美しい雲から光があふれて、蔵王権現が現れます
5.蔵王権現は、子守の神、勝手の神ともに名前が違うだけで同じ神であると教え、世を寿ぐ舞を舞います
対訳
ワキ(勅使)、ワキツレ(臣下) | (次第) | (ワキが登場します) |
吉野の花の種とりし | 吉野の花の種を移し植えた | |
吉野の花の種とりし | 吉野の花の種を移し植えた | |
嵐の山に急がん | 嵐山へと向かいます | |
ワキ | そもそもこれは当今に仕へ奉る臣下なり | 私は帝に仕える臣下でございます |
さても和州吉野の千本(ちもと)の桜は | 吉野の桜は | |
聞しめし及ばれたる名花なれども | 誰もが知る名花でございますが | |
遠満十里の外なれば | 都からは遠く離れていますため | |
花見の御幸なる事かない給はず | 帝が花見にお出ましになることも簡単には叶いません | |
去るほどにかの千本の桜を嵐の山に植えおかれ | そのため、かの吉野の桜を嵐山に移し植えるようになさいました | |
此春の花を見て参れとの宣旨を蒙り | 今春の花の様子を見て来るように命令され | |
唯今嵐山へと急ぎ候 | 嵐山に急いで向かいます | |
都にはげにも嵐の山桜 | 都にはこれほどの木はないであろう、これこそ嵐山の山桜 | |
ワキ/ワキツレ | げにも嵐の山桜 | 嵐山の山桜 |
千本の種はこれぞとて | 吉野から移した桜はこれであろうと | |
尋ねて今ぞ三吉野の | 今訪れて見るこの桜の様子は | |
花は雲かと眺めける | 吉野の桜は雲のようだと | |
その歌人の名残ぞと | 昔の歌人が詠んだ通りの景色です | |
よそ目になれば猶しもに | 離れて見ればなお一層 | |
妙なる花の景色かな | 素晴らしい花の景色で御座いますなぁ | |
妙なる花の景色かな | 素晴らしい花の景色で御座いますなぁ |
(一声) | (シテが登場します) | |
シテ(尉)ツレ(姥) | 花守の住むや嵐の山桜雲も上なき梢かな | 花守が住む嵐山の山桜の梢はこの上なく素晴らしい |
千本に咲ける種なれや | (この木が)吉野の種を移し植えたものであるためか | |
ツレ | 春も久しき景色かな | 永遠に春が続くのではないかと思えるほどの景色です |
シテ/ツレ | これはこの嵐山の花を守る夫婦の者にて候なり | 私共はこの嵐山の花を守る夫婦です |
シテ | それ遠満十里の外なれば | (吉野は)都から遠く離れているため |
シテ/ツレ | 花見の御幸なきままに | 帝が花見にお出かけになられることもありませんが |
名におふ吉野の山桜 | 有名な山桜 | |
千本の花の種とりてこの嵐山に植ゑおかれ | その千本桜の種を取って嵐山に移し植え | |
後の世までの例とかや | 後世に残るようになされた | |
これとても君の恵かな | これこそ素晴らしい君主の恵みで御座います | |
下歌(さげうた) | (低い音程で短い詩を詠います) | |
げに頼もしや御影山 | あぁ帝の恵みは高く聳える山のように頼もしい | |
治まる御代の春の空 | 麗かな春の空は平和な治世の賜です | |
上歌(あげうた)【小謡】 | (高い音程で景色のすばらしさを詠い上げます) | |
さも妙なれや九重の | いかにも素晴らしい帝の御座します都の | |
シテ | さも妙なれや九重の | いかにも素晴らしい帝の御座します都の |
ツレ | 内外に通ふ花車 | 都の内にも外にもひしめき合う花見の車 |
シテ/ツレ | 轅も西にめぐる日の影ゆく雲の嵐山 | 轅(牛車の牽き柄)も陽も時間とともに西に向かい雲の影も嵐山へと流れます |
戸無瀬に落つる白波も | 嵐山のふもとを流れる戸無瀬(大堰川)の川面に落ちる白波も | |
散るかと見ゆる花の瀧 | 花が舞い散り花の滝のようです | |
盛久しき気色かな | 花(泰平なこの治世)も盛りの素晴らしい景色ですなぁ | |
盛久しき気色かな | 花(泰平なこの治世)も盛りの素晴らしい景色ですなぁ |
ワキ | いかにこれなる人に尋ね申すべき事の候 | ここにいらっしゃる人にお尋ねしたい事がございます |
シテ | 此方の事にて候か何事にて候ぞ | 私のことで御座いましょうか。何のことでしょうか |
ワキ | 見申せばかほど多き木の本を清め | 拝見しましたところ、これほどに多くの木々の下を掃き清めて |
花に向ひ礼をなし給う | 花に向かって礼拝して居らっしゃるのは | |
不審にて候 | 不思議な様子に感じます | |
シテ | げにげに御不審は御理にて候 | 御不審に思われるのももっともなことで御座います |
此嵐の山の千本の桜は皆神木にて候程に | この嵐の山の桜の木は皆ご神木で御座いますから | |
かように陰を清め礼をなし申し候 | このように木陰を清め礼拝しているので御座います | |
ワキ | ふしぎやな嵐の山の千本の桜の | 不思議なことです嵐山の千本の桜が |
神木たるべき謂れはいかに | ご神木であるという謂れはどういったものなのでしょうか | |
ツレ | この嵐の山の千本の桜は | この嵐山の桜の木は |
吉野の花を移されたれば | 吉野の桜を移し植えたものであるので | |
子守勝手の神慮にも | 子守の神、勝手の神の思し召しによって | |
惜しみ給ひし故により | このことを名残惜しくお思いになり | |
人こそ知らね今とても | その謂れを誰も知ることもない今も | |
この花に影向なるものを | この花に訪れ、仮の姿となって来臨なさるのです | |
げにやさしもこそ厭ふ憂き名の嵐山 | 花という言葉にふさわしくない、「嵐」という名を持つ嵐山を | |
ワキ | 取り分き花の在所とは | ことさら花が素晴らしく咲く場所として |
何とて定め置きけるぞ | どうして定められたのでしょう | |
それこそ猶も神力の | それこそが神のお力で御座います | |
シテ | 妙なる花の奇特をも | (名前がふさわしくない場所であっても)見事に花を咲かせるという奇跡は |
顕わさんとの御恵み | 力を万人に対し顕わにする神の御恵みです | |
シテ/ツレ | げに頼もしやつくば山 | なんと頼もしいことであろうか、神を崇め奉る名の山とは |
靡き治まる三吉野の | 神力によって治まる吉野の | |
神風あらばおのづから | 神風が吹けば自然と花が咲き乱れるのです | |
名こそ嵐の山なりとも | たとえ名前が嵐の山であっても | |
地 下歌 | (下歌) | 地謡(低い音程で老人の正体を明かします) |
花はよも散らじ | 花は散ることもあるまい | |
風にも勝手木守とて | 風に散ることもあるまい。勝手の神子守の神という | |
夫婦の神はわれぞかし | 夫婦の神は私達のことです | |
音たかや嵐山 | (嵐山が有名なことは)誰でも知っている様にこの事も声高に申しましたが | |
人にな知らせ給ひそ | 他の人に教えることはしないでください | |
地 上歌 | (上歌) | 地謡(高い音程で景色のすばらしさ、神力の尊さを詠います) |
笙の岩屋の松風は | (吉野山の)笙の岩屋に吹く風の松風の音は | |
笙の岩屋の松風は | 笙の岩屋の松風は | |
実相の花盛 | 春になれば花が咲くのと同じく(神仏の)不変の理を如実に表しています | |
開くる法の声立てて今は嵐の山桜 | 神仏の秩序が泰平の世に花開く様に、嵐山の桜は今咲き誇っています | |
菜摘の川の水清く | 菜摘川(吉野川)の水は清く | |
真如の月の澄める世に | 澄み切った真実を表す月が映っています | |
五濁の濁ありとても | この世が五濁(災害や誤った見識、煩悩など)に溢れていたとしても | |
流れは大堰川その水上はよも尽きじ | ここを流れる大堰川、その流れは尽きることなく、真理が変わることもない | |
いざいざ花を守らうよ | さあさあ、花を守ろうよ | |
いざいざ花を守らうよ | さあさあ、花を守ろうよ | |
春の風は空に満ちて | 春の風(神仏の秩序)は空いっぱいに満ちて | |
春の風は空に満ちて | 春の風(神仏の秩序)は空いっぱいに満ちて | |
庭前の木を切るとも | 庭に植えた木を切ったとしても(神仏の教えが信じられなくなったとしても) | |
神風にて吹きかへさば | 神風が吹き返せば自然と花が咲き乱れるののと同じように | |
妄想の雲も晴れぬべし | 空に沸く雲も心を曇らせる思考も吹き飛ばして晴れ渡るでしょう | |
千本の山桜長閑き嵐の山風は | 千本の山桜は長閑です。嵐の山風が | |
吹くとも枝は鳴らさじ | 吹いたとしても枝が鳴ることもないでしょう | |
この日もすでに呉竹の | 今日の日もすでに暮れ始めました(呉竹=「夜」の枕詞) | |
夜の間を待たせ給ふべし | 日が暮れて夜になるのをお待ちください | |
明日も三吉野の山桜 | 明日もまみえましょう(「みよしの」と「見」が掛け詞) | |
立ちくる雲にうち乗りて | そう言うと、湧き立つ吉野の桜のような雲に飛び乗って | |
夕陽残る西山や | 夕日がまだ残る西の山を過ぎて | |
南の方に行きにけり | 南の方へと去っていきました | |
南の方に行きにけり | 南の方へと去っていきました | |
中入り | 場面が変わります |
アイ | 間狂言 | 末社の神が現れ、吉野の木を移し植えた嵐山の桜の由緒を述べ舞を舞う |
⁻ | 子守の神と勝手の神が現れます | |
地 | 三吉野の | み吉野の |
三吉野の | み吉野の | |
千本の花の種植えて | 千本の花を移し植えて | |
嵐山あらたなる | 嵐山が(神が訪れるのにふさわしく)改まり神力は鮮かです | |
神あそびぞめでたき | 神遊び(舞楽・神楽)をなさるの様子は素晴らしい | |
此神あそびぞめでたき | 神遊び(舞楽・神楽)をなさるの様子は素晴らしい | |
後ツレ(子守・勝手) | いろいろの | 色々の |
地 | いろいろの | 色々の |
花こそまじれ白雪の | 様々な花が混ざってはいますが、白雪のように花が咲き乱れています | |
後ツレ(子守・勝手) | 子守勝手の | 子守の神勝手の神の |
恵なれや松の色 | 恵みでありましょう。松の色も青く | |
後ツレ(子守・勝手) | 青根が峯ここに | (吉野で最も標高が高く蔵王権現を祀る)青根が峰がここにあるかのように |
地 | 青根が峯ここに | 青根が峰がここにあるかのように |
小倉山も見えたり | (桂川を挟んで嵐山の対岸に位置する)小倉山も見えます | |
向は嵯峨の原 | 向かいには嵯峨の原 | |
下は大堰川の | 麓に流れる大堰川の | |
岩根に波かかる亀山も見えたり | 岩に波しぶきがかかっています。亀山もみえました。 | |
万代と | (この太平の世がいつまでも続くようにと)萬代と | |
万代と | 萬代と | |
囃せ | 囃しなさい | |
囃せ | 囃しなさい | |
神あそび | 楽器を奏し舞を舞いましょう | |
千早振る | 神力が漲る様子に畏れ謹む(「神」の枕詞) | |
中ノ舞 | ⁻ | 子守の神、勝手の神が中位の速さで舞いを舞います |
地 | 神楽の鼓声澄みて | 神楽の鼓の音は澄んで |
神楽の鼓声澄みて | 神楽の鼓の音は澄んで | |
羅綾の袂をひるがへし飄す | 羅(薄衣)や綾(綾織)のような美しい衣のたもとを翻しつ翻す | |
舞楽の秘曲も度重なりて | 舞楽の秘曲も幾度も舞われ | |
感応肝に銘ずるをりから | (勅使は)感動し心に刻み付けていると | |
不思議や南の方より吹きくる風の | 不思議なことに南の方から吹いて来る風が | |
異香薫じて瑞雲たなびき | 優れた良い香りがし瑞雲がたなびき | |
金色の光輝きわたるは | 金色の光が輝き渡るのは | |
蔵王権現の来現かや | (吉野の青根が峰に坐す)蔵王権現が現れなさるのか |
早笛 | ⁻ | 速い調子で奏でられる笛と小鼓、大鼓、太鼓とともに蔵王権現が現れます |
地 | 和光利物の御姿 | (神仏が威光を和らげ衆生に利益を与えるために現れる)和光利物のお姿 |
和光利物の御姿 | 和光利物のお姿 | |
後シテ | 我本覚の都を出でて | 我は不変真如たる真実の世界から出でて |
地 | 分段同居の塵に交はり | 凡夫の苦しみ、迷いのある、この世に交わり |
金胎両部の一足をひつさげ | 人間が真我に根源的に持つ般若の知恵たる金剛界と | |
万物宇宙が持つ不変の性質である真如たる胎蔵界の両部を備える | ||
一足を引っ提げ | ||
悪業の衆生の苦患を助け | 悪業に陥る衆生の苦しみを助け | |
さてまた虚空に御手を上げては | さて又、虚空にその御手を上げては | |
忽ち苦海の煩悩を払ひ | たちまち、苦しみの果てることのないこの世の煩悩を払い | |
悪魔降伏の青蓮のまなじりに | 悪魔を防ぎ抑える青蓮華のまなじり(仏の美しい目元)に | |
光明を放つて国土を照らし | 光を放って国土を照らし | |
衆生を守り誓を顕し | 衆生を守る誓いを顕わにし | |
子守勝手蔵王権現 | 子守の神、勝手の神、蔵王権現 | |
一体分身同体異名の姿を見せて | 同一の神であり、名前の変えて現れる姿を見せ | |
おのおの嵐の山に攀じ登り | それぞれ嵐の山によじ登り | |
花に戯れ梢にかけつて | 花に戯れこずえを駆けって行く | |
さながらここも金の峰の | この嵐山も(蔵王権現を祀る吉野の)金峰山のように | |
光もかかやく千本の桜 | 光輝く千本の桜 | |
光もかかやく千本の桜の | 光輝く千本の桜が | |
栄ゆく春こそ久しけれ | 花が咲き誇る太平の御代はいつまでも栄えることで御座います |