秋の気配が漂い始め、実りに感謝する季節です。
菊慈童(きくじどう)
能では枕慈童ともいわれます。周の穆王(ぼくおう)に仕えていた慈童は罪を犯し、酈縣山に流罪になります。
不憫に思った王は枕に観音経の偈句を記し慈童に与えます。
慈童はその句を忘れないように菊の葉に書き写し、その葉から落ちる露は薬の酒となりました。
その酒を飲んだ慈童は七百年を過ぎても猶、酈縣山に来た時と同じ姿を保っていました。
九月九日は重陽の節句です。重陽の節句は菊の節句ともよばれます。また、九州地方の”おくんち”も九日を祝う秋祭りです。
五節句は
一月七日(人日)・三月三日(上巳)・五月五日(端午)・七月七日(七夕)・九月九日(重陽)
白菊(しらぎく)
白い菊のこと。平安時代は白い菊が盛りを過ぎて徐々に紫に色が変わっていくのを鑑賞したそうです。
伊勢物語 第十八段
むかし まな心ある女ありけり (昔、生半可な風流心を持つ女がいた) をとこ近うありけり (男が近くに住んでいた) 女 歌よむ人なりければ 心見むとて (女は歌を詠む人であったので試してみようと思って) 菊の花のうつろへるを折りて をとこのもとへやる (菊の花が白から紫に変わってしまったものを手折って男のもとに贈った) くれなゐに にほふは いづら白雪の 枝もとををに降るかとも見ゆ (紅に鮮やかに色づいているのはどこでしょうか 白雪が枝にたっぷりと降っているように見えますが) をとこ、知らずよみによみける (男は知らないふりをして詠んだ) くれなゐに にほふが うへの 白菊は 折りける人の 袖かとも 見ゆ (鮮やかな紅に色づいているのに白菊というのは、これを手折った人の袖だろうかとおもいますよ)
女が詠んだ歌の心は
あなたの心もこの花のように色づいて(女性に声かけまくって)いるんでしょう?見かけは白々しく澄ました顔していらっしゃるようですけど?
これに対して男は
色を隠しているのはこれを手折ってわざわざこんな歌を詠んで寄越した人の袖ではないですか?
男の方が上手でした・・・。
八重葎(やえむぐら)
ヤエムグラという名前の雑草もありますが、そういった草が沢山幾重にも生い茂った草叢のこと
恵慶法師(拾遺和歌集 小倉百人一首) [河原院にて荒れたる宿に秋來るといふこゝろを人々よみ侍りけるに] 八重葎 茂れる宿の さびしきに 人こそ見えね 秋は来にけり (草が幾重にも茂った寂れた家に人は誰も来ることはないけれど、それでも秋はやってきたのだなぁ)
葎や八重葎といった草むらを指す言葉は俳句では夏の季語として扱われることも多いですが、秋の物寂しさを表す言葉としても使われます。
鈴虫(すずむし)
夏の暑い暑い時期の蝉時雨もいつしか静かになり、秋の夕暮れには虫が鳴き始めます
鈴虫がりーんりーんと鳴き始めると秋を感じますよね
文部省唱歌 蟲のこゑ あれ松蟲が 鳴いてゐる ちんちろちんちろ ちんちろりん あれ鈴蟲も 鳴き出した りんりんりんりん りいんりん あきの夜長を鳴き通す あゝおもしろい蟲のこゑ きりきりきりきり きりぎりす がちやがちや がちやがちや くつわ蟲 あとから馬おひ おひついて ちよんちよん ちよんちよん すいつちよん 秋の夜長を鳴き通す あゝおもしろい蟲のこゑ
文部省唱歌から尋常小学校唱歌になる際に、キリギリスがコオロギに書き換えられているのですが、”キリギリス”という言葉がコオロギを指す古語だった為だそうです。
また、古くは”マツムシ”を”スズムシ”と呼び、”スズムシ”を”マツムシ”と呼んでいたというややこしいお話
豊秋(ほうしゅう)
豊かな秋、実りを言う言葉
ただし、古事記”大倭豊秋津島” 日本書紀”大日本豊秋津洲”の記載は[おおやまと とよあきつしま]と読み、日本の本州を指す言葉。《”あきつ”とは”蜻蛉”の事で実りの季節を象徴するもの》豊葦原瑞穂国、大八州、葦原中国、敷島などと同様に日本の美称として使われます。
案山子(かかし)
作物を獣や鳥などから守るために、田畑の中に笠や蓑、衣類を着せて立たせた竹や藁でできた人形のこと
地域によっては”そうず””げんぴんそうず”などと称することもありますが
玄賓僧都 続古今集 巻十七
山田守る 僧都の身こそ あはれなれ 秋果てぬれば 問ふ人もなし
(山田を守る”そほづ”の身は寂しいものであるな。秋が過ぎて飽きてしまえば訪れる人もいないよ。)
[そほづ][山田のそほづ]というのは案山子やししおどしのことを指す言葉で、この歌を詠んだ人=僧都(そうず)から
竹生島(ちくぶしま)
竹生島の弁才天を祀る宝厳寺は西国三十三観音霊場の三十番目
御詠歌
月も日も 波間に浮かぶ 竹生島 船に宝を つむ心地して
から月に縁のある言葉として使われることが多いです。
能の竹生島は春の長閑な日の出来事です。
弁財天はヒンドゥー教のブラフマーの妻であるサラスヴァティーが中国を経由して仏教の神として伝わったのち神道に取り入れられたものです
宝厳寺の弁才天像はサラスヴァティーの像と同じく武器を手に持っており、鎮護国家の神としての性質が現れています。
湖月(こげつ)
湖に映った月のこと。
平安時代には月を直接見るのではなく、池や湖、たらいや盃などに映して鑑賞するのが良いとされていました。
旧暦8月15日(9月23日前後半月の間)の夜の満月を中秋の名月と呼びます。
峰の月(みねのつき)
秋になると空が澄んで月がきれいに照り映えます。
安倍仲麿 古今集 小倉百人一首 あまの原 ふりさけ見れば 春日なる みかさの山に 出でし月かも (天を仰いではるか遠くに見えるのは 春日にある三笠山に昇っていたのと同じ月なのだなぁ)
玉兎(ぎょくと)
月に住み臼と杵で餅をつくという兎。中国では”せんじょ”というヒキガエルが住むとする伝説もある。
中国では道教の影響を受けた伝説であり、搗いているのは餅ではなく、不老不死の霊薬を作る薬草とされている。
また、仏教と深くかかわりがあり、インドから日本に至るアジア各地で月に兎が住むとされる。
太陽には金烏というカラスが住んでいます。八咫烏と同じ姿で描かれる。
萩の露(はぎのつゆ)
地歌・筝曲の曲名
何時しかも 招く尾花に袖ふれ初めて 我から濡れし露の萩
(いつのことだったろうか 薄の穂が招く様に誘われ袖触合って男女の仲となったが、今では萩の露が着物を濡らすように涙が衣を濡らす思い出です)
今さら人は恨みねど 葛の葉風はかぜにそよとだに
(今更人を恨むわけではないけれど 葛の葉が裏返ってそよとも音が聞こえないように、すでに貴方の心は変わってしまったのでしょうか)
おとづれ絶えて松蟲の ひとりねに鳴く侘しさを
(誰も訪れることがない場所で一人で寂しくまつ虫のように、あなたを待って一人、泣いています)
夜半に砧の打ちそへて いとど思ひを重ねよと 月に声は冴えぬらん
(夜に砧の音が響き 寂しく恋しい想いを思うだけ思って見よと 月は白く輝いています)
いざさらば 空ゆく雁に言問はん
(さあ、それならば 空を飛んでいく雁に尋ねてみよう)
恋しき方に玉章を、送るよすがの有りやなしやと
(恋しい人に手紙を送る方法は有るのかないのかと)
山里(やまざと)
壬生忠岑 古今和歌集
山里は 秋こそことに わびしけれ 鹿の鳴く音に 目をさましつつ
(山里は秋こそとりわけ寂しく感じるものです 鹿がつがいを求めて鳴くたびに 目を覚まして眠れない夜を過ごします)