【8月】禅語

心静即身涼(こころしずかなればすなわちみすずし)

白居易の詩の一説です

不是禅房無熱到、但能心静即身涼(是禅房に熱到ることなきあらず、但だよく心静かなれば即ち身も涼し)

禅宗では座禅の心得として用いられる言葉です

心が静か(=禅定を得て一つのことに集中した状態)であれば心が『暑い』と思うことがないので体も涼しいということ

子供のころ、父に言われた”夏は暑い、暑いと思うから暑い”を思い出します。何言ってんだこのオッサンと思っていましたが、ある意味深い言葉であったと懐かしく思います。

禅定というのはヨガでいうところのディヤーナ(Dhyana)のこと、八支則の内の7番目、心が集中していた対象と同一化した状態です。さらにその状態が乱されなくなった状況がサマーディ(Samadi)悟りの境地です。仏教には六波羅蜜や十波羅蜜などの形で取り込まれています。波羅蜜と般若の知恵は東洋哲学を考えるうえで非常に重要なものですので他にまとめたいと思います。

仏の事でも、世界平和の事でも、お茶をおいしく点てて目の前のお客様にお茶を差し上げることでも、その一点に集中している間は暑くない・・・はず。と思って精進しましょう。

白雲抱幽石(はくうんゆうせきをいだく)

寒山詩の一節として有名。謝靈運の詩からこの言葉を引用して

重巌我卜居 鳥道絶人迹  (重巌に我れト居す 鳥道人跡を絶す)
庭際何所有 白雲抱幽石  (庭際何んの有る所ぞ 白雲幽石を抱く)
住茲凡幾年 屡見春冬易  (ここに住むこと凡そ幾年、しばしば春冬のかわるを見る)
寄語鐘鼎家 虚名定無益  (語を寄す鐘鼎の家、虚名定まらず益無し)

岩が連なる険しい山に私は居を定めた。わずかに鳥だけが通い、人が訪れることはない。
庭さきには何があるだろうか。ただ白い雲が苔むした幽寂な石を包んでいるのみである。
ここに住んで何年経ったであろうか。春から冬へと何度も季節が移り変わった。
富貴な人に何か言おう。名声や富といったものは移ろい、用をなさないものである。

この詩はさらに元ネタとして山中宰相と呼ばれ、書と道教で名声を得ていた陶弘景が、武帝から[山の中には何があるのか」と問われ、これに対し、[山の峰の上には白い雲が浮いて居ります、これは私がただ楽しむばかりで、陛下にはお見せできません。」と詩を詠んで答えたことを土台にしています。

名声や富よりも、ただ沸き立つ雲の方が目を、心を楽しませるだけ役に立つものであるという隠遁者の心持を表す言葉です。

寒山は、寒山拾得で有名なあの、へんてこな臨済宗のお坊さん2人組です。

独坐大雄峰(どくざだいゆうほう)

「碧巖録」第二十六則

擧。僧問百丈。如何是奇特事。丈云。獨坐大雄峰。僧禮拜。丈便打。
挙す 僧百丈に問う いかなるか是れ奇特の事 百丈云わく 独座大雄峰 僧礼拝 百丈すなわち打つ

百丈禅師にある僧が質問します
(修業をすることによって)どのような素晴らしいことがあるのですか
百丈禅師は答えます
(この世で最も尊いことは)いま、ここ、百丈山の山の上にどっかりと腰を下ろし、座禅を組んでいることだ
僧は礼拝し、百丈は竹篦でその僧を打ちました

禅の境地は難しいですね。僧と百丈の問答はおそらく噛み合っていないにもかかわらず、僧はその答えから真理を読み取りました。

富も名声も、生きてそれを利用しなければ意味がないもの。禅の修行は手段と目的がどちらも”今ここにある事”であるので尊いという事でしょうか。

ヨガや瞑想なんかで”今ここ”という言葉をよく使います。

修業、行法、なんでもいいのですが、修業して何らかの結果が得られるのが素晴らしいのではなく、今、ここに座禅を組み、大自然と一体になっている 今、この瞬間が尊いものであるという考え方です。

自然と自分が一体になり、自分が世界になる、全体と一部の区別はないが、それでも真我は自分である。三昧の境地というのは我々凡夫には理解しきれない物のようです。

清流無間断(せいりゅうにかんだんなし)

嘉泰普灯録(中国南宋時代の禅宗の史書)

清流無間断 碧樹不曾凋(せいりゅうかんだんなく へきじゅかつてしぼまず) 対句になっています

清流は常に湧き流れ、途切れることはなく、常緑の青々とした木々は凋むことはない

仏教の教えも途切れることなく連綿と続いていくという意味

仏教の教え、茶の湯の教え、我々の生活すべてに源流があり、それを先人が連綿と受け継いだ結果として今があります

清流のイメージから7月ごろに掛けられることの多い掛物ですが、先人、先祖に感謝するという意味でお盆にも。

行雲流水(こううんりゅうすい)

『宋史』蘇軾伝 
嘗自謂 作文如行雲流水 初無定質
(文を作るは行雲流水の如く、初めより定質無し)
文章を作るときには行雲流水のごとく、決まった形式はなく自由である。
行くべきところに行き、止まるべきところで止まるのである。という記述によるもの。

雲は風下に向かって流れ、風が止まれば一時留まる、水は高いところから低いところに自然に流れるという言葉です。

雲も水も何かにこだわって流れてやろうと考えて流れているのではありません、ただ自然の摂理に従ってあるがまま、何にもとらわれないで流れていく。この、無心 無想 何物にもとらわれない自由な精神の境地を求める 禅宗の修行僧を「雲水」と呼びます。

澗水湛如藍(かんすいたたえてあいのごとし)

「碧巖録」 第八十二則

山花開似錦 澗水湛如藍(山花開いて錦に似たり 澗水たたえて藍の如し)
弟子の僧が大瀧和尚に”色身は敗壊す、如何なるか是れ堅固法身”と問うた答えです

肉体はいつしか滅び灰となってこの世からなくなってしまいますが、不滅な命はどこにあるのでしょうか と
それに対して、山に花が錦のごとく咲き乱れ、淵の水は藍のように青く静かに波も立てずに留まっている と

もちろん、花は数日と経たずに散り、一時留まっていた淵の水も上流から流れる谷川の水に押し流されていきます。

今、この一瞬の中に永遠があり、永遠の中に花が咲き、淵に水が留まる状態が繰り返されていく、同じようであり、同じではない、一瞬の繰り返しの中に我々は生きています。

瀧直下三千丈(たきちょっかさんぜんじょう)

李白の ”望廬山瀑布”の一節

日照香炉生紫煙 (日は香炉を照らし紫煙を生ず)
遥看瀑布挂前川 (遥かにみる瀑布の前川にかくるを)
飛流直下三千尺 (飛流 直下三千尺)
疑是銀河落九天 (疑うらくは是れ銀河の九天より落つるかと)
日は香炉峰を照らし、あたりが白く感じられるほどのもやが立ち込めている
遥か遠くに滝が前にある川に流れ落ちているのを見る
滝の流れは飛ぶように真下へと3千尺(とんでもなく高いたとえ)を落ちていく
これは銀河が天を覆う空の最も高い場所から落ちてきたのではないかと疑うほどだ

銀河と言っているので、天の川にかけて七月の掛物にもよいかと思いますが、やはり、3千尺・・・3千丈・・・とんでもない勢いで水が流れ落ちてきますので、暑い時期に涼を感じるのが良いのでは。

万里無片雲(ばんりへんうんなし)

景徳伝灯録

問         (問う)
萬里無片雲時如何  (万里に片雲なきとき如何)
師曰        (師曰く)
青天亦須喫棒    (晴天また須らく棒を喫すべし)

宝寿沼禅師(臨済禅師の弟子にあたるお坊さん)に弟子の僧が問います
万里に片雲がない(悟りの境地と思って聞きます)のはどういう事で御座いましょうか?
宝寿沼禅師は答えます
晴天(自分の体験でないものを鵜呑みにして物を言う者)には棒を食らわせてやろう
ずいぶん乱暴ですね
この続きもあります
晴天有何科     (晴天に何のとがある)
晴天に(晴天を悟りの境地と例えることに)何の罪、過ちがありましょうかと
とうとう、この弟子は師匠の宝寿沼禅師に棒でたたかれてしまいます。

もし、弟子が、座禅を組んでいる刹那、空に一片の雲もないような心持であった、これは何でしょうかと聞いたなら、きっと宝寿沼禅師は棒でたたいたりすることもなかったでしょう。

人の悟りを自分の体験のように話したところで何の意味もないこと。空はただ青く、時に雲が湧き、雨が降り、そしてまた晴天の時がやってきます。人の心も瞑想の刹那、迷いが晴れ、悟りを得たとしてもすぐに次の煩悩が沸き起こります。

一葉落知天下秋(いちようおちててんかのあきをしる)

淮南子(説山訓)

見一葉落 而知歳之將暮(一葉の落つるを見て歳のまさに暮れなんとするを知り)

一枚の葉が落ちるのを見て、すぐに秋が来て、そのまま一年が終わるように、

小さな兆しから天下の秋を予見する

小さな変化を見て先のことを見通すことを指す言葉です

桐の葉は秋になると真っ先に落ち始めます”桐一葉”という言葉も秋の訪れを指す言葉です

残暑の中にも少しずつ秋の気配を感じ取ります